謎・42:夏目漱石と『シンデレラ』。
夏目漱石。
明治末期から大正初期にかけて活躍した、近代日本文学の頂点に立つ作家の一人。
明治の文豪として千円紙幣の肖像にもなった人物。
代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。
・・・と、ここで語るまでもない人物ですが。
では、そんな夏目漱石と『シンデレラ』の出会いについて、ご存知でしょうか?
漱石が生まれたのは1867年2月9日。
まだ江戸時代なんです。
ちょうど江戸から明治に時代が変わる転換期でした。
1867年11月9日、大政奉還(江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上)。
1868年1月3日、王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言。
1868年5月3日、江戸開城。
大きく時代が変わる時に生まれたんですね。
西洋文化が一気に入ってきて制度や習慣が大きく変化し、庶民の生活もどんどん変わっていった文明開化の時代。
そんな時代の大きな変化と共に成長していった漱石は、帝国大学卒業後、高等師範学校の英語教師になり、1900年には文部省より英語教育法研究のため、「ある国」に留学を命じられます。
1900年といえば、日本の小学校の国語の教科書に初めて『シンデレラ』のお話が掲載された年。
(この坪内逍遥が翻訳した珍しい日本風『シンデレラ』の「シンデレラの謎と秘密」はぜひコチラから!)
日本人に『シンデレラ物語』が広まり始めた年でもあります。
それまではシンデレラのお話はほとんどの日本人に馴染みがなかったのかと思うと、今では当たり前のように多くの人が知っていることが、逆になんだか不思議に思えてきます。
漱石とシンデレラの出会い
漱石が「初めて」シンデレラ物語に出会ったのがいつなのかは、わかりません。
でも留学先の「ある国」で、漱石が『シンデレラ』に出会っていました。
実は1901年3月30日に、漱石が「シンデレラ劇」を留学先のHippodrome劇場で鑑賞していた時の記事や衣装が載っているコレクションが、私たちのプリンセスミュージアムにあるんです。
これが漱石にとって何度目の『シンデレラ』との出会いだったのか。
もしかして初めてだったのか。
真相はわかりません。
でも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚えてもいたという漱石が、シンデレラ劇を観てどのような感想を抱いたのか、とても気になります。
さて、そんな漱石が留学した「ある国」とは、どこでしょうか?
わかりますか?
「夏目漱石とシンデレラの出会い」にまつわるコレクションをぜひ観てみたい!
そんな方は、ぜひ私たちプリンセスミュージアムの「世界記録No.1のシンデレラコレクション」による、展覧会やイベント、シンデレラ研究家・川田雅直の講演などにいらしてください。
他にも、珍しいシンデレラがたくさん!
今まで知らなかった素敵な「シンデレラの謎と秘密」に、出会えますよ。
脳に刻まれたシンデレラの記憶
1916年に49歳で亡くなった夏目漱石。
明治時代も1868年〜1912年ですから、まさに明治期と共に生きた人物かもしれません。
なんと漱石の脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されているそうですよ。
なんだかちょっと怖い気もしますが、その脳に刻まれた『シンデレラ』についての記憶を、いつか知ってみたいものです。
原案/シンデレラ研究家 川田雅直
文・構成・デザイン/米山美穂
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